@cikarang

インドネシアはリッポーチカランでの生活を記録に残し、記憶にとどめる。

インドネシア を知るということ


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僕はたまに村を訪れる、最近は回数こそ減ってはいるが、村を訪れるようにしている。

忘れてしまいそうな何かを確かめるために、あるいは、もう忘れてしまった何かを思い出すために。

インドネシアには、2億4千万人もの人々が住んでいる。金持ちもいれば、貧乏もいる、その貧富の差は、日本のそれと比べると雲泥の差である。

村には貧しい人が生活している。

 

ジャカルタのモールを謳歌したり、バリ島で観光をしたり、インドネシア料理屋やワルンでご飯を食べたり、それはそれで、インドネシアなのだが、どちらかというと、それらはおそらくマイナーな方に属する、決してメジャーではない。なぜなら、富裕層の行動パターンであるから。

インドネシアの大半は、貧乏である。そういった意味では、貧乏の暮らしが、「普通の暮らし」ということになる。その暮らしを知らずして、インドネシアの何が理解できたと言うのであろうか。

 

村には、ニワトリが放し飼いされている、ヒヨコも見かける。それらは、村人の食事となる。

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村には、田んぼがある、収穫の時期には、刈る人、分ける人、干す人、精米する人、と分業となり、みなで協力してコメを確保する。

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村には、小学校がある。教材は明らかに足りていない、でもみな楽しそうだ。イジメなんてまるでない。

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村には、仲間がいる。みんな知り合いで大家族がそこにあるような錯覚になる時がある。

 

村にはおそらくお金はない。でもお金では決して買うことができない「豊かな心 」みたいなものが、そこにはあるように感じる。人として大切な何かが。そんな心の持ち主が、きっと純朴無垢な混じり気のない透き通った笑顔を振りまけるのだ。

ある程度(日本人として人並み)の経済的な豊かさを手に入れた代償なのだろうか、気付かぬうちに、そういった大切な何かが、むしり取られていっているように感じる。

 

だから、僕は村に行く。インドネシアの良いところを浴びるために。そして、大切な何かを忘れないために。

 

結婚式にも行った。葬式にも行った。犠牲祭にも行った。昼食をご馳走にもなった。村のお宅はもう何軒訪れたであろう。散歩もした。子供と戯れた。出産祝いにも行った。

その全ては、日本のそれらとは、全く違う。違うどころか別物のように見える。どちらが劣っているのかは、よく考え吟味してから結論を導かないと、見誤ってしまうことになる。

 

インドネシアを知る、現地に入り込むとは、そういうことなのではないか、と最近ふと思ったりするのである。