近くの村の犠牲祭に参加した。と言うより、見学と言うべきか。
犠牲祭ー。
・レバランに次ぐ大きさの祭り
・イスラム教などの始祖が、自分の息子を犠牲にした(アラーのために)のが始まりとか
・裕福なムスリムが、貧しいムスリムのために、牛を与える、ということらしい
まあ、こんなウンチクは、参加していて微塵も感じなかったのだが、犠牲祭はとても良い行事に思う。
生き物が大きくなればなるほど、殺される際には、グロテスク感が増す。だからと言って、小さい生き物が簡単に殺されていいわけではない。大切なのは、感謝の気持ちが持てるかどうかなのではないか。
犠牲祭で目の前で牛を殺す。子供も見ている。苦しみながら死んでいった牛さんに対して、その肉を食べるときに、自然と感謝の気持ちが現れるような気がするし、一連の流れを理解できる。食べ物は、誰かが犠牲になっているということを。
犠牲祭はいつまで続くのだろうか。そのうちに、面倒だし臭いからスーパーで買ってきたものを食べましょうや、とかなったりしたら、とても残念な気持ちになる。身勝手極まりないが…。
便利になることは、とても気持ちが良い。その反面、何か大切なモノが失われてしまう。その過程の一部が省かれるために。だから、無責任で身勝手だが、インドネシアは、犠牲祭的なものを大事にして欲しいと思う。
便利さを求め過ぎた日本は、人として大切なモノが欠如してきているように感じてならなかった。
来年は参加しよう。